アイエアでモアナルアFwy.を降りてから99号線を西に向けて少しだけ走り、朝とも昼とも付かない食事を、僕は途中のワイマルで調達することにした。
ショッピングセンターの駐車場の、入口に比較的近い位置に車を停め、建物の正面に沿って並ぶいくつかの小さな店舗の前を歩いて通り過ぎながら、僕は一軒の食堂に掲げられた大きな看板を見上げた。
Shiro’s SAIMIN HAVEN。
心安らぐシロウのサイミン食堂、といった語感だろうか。
やや太めの縮れた麺に、ごく普通でいくのなら薄切りのチャーシューや鳴門巻きなどの具を添え、鰹や昆布の出汁が利いたスープでいただく、あのサイミンを食べさせてくれる食堂だ。
店の名前に聞きおぼえがあった。
僕のおぼろげな記憶として、白髪頭に白いキャスケットをかむった、お洒落で人懐っこい印象の、小柄な好々爺の姿が一緒になって思い浮かんでくる。
彼の名前はフランツ・シロウ・マツオ。
幾度も押し寄せる試練に正面から向き合い続け、この小さな食堂の成功にとどまらず、ハワイのコミュニティと外食産業の発展に大きく貢献し「ミスター・サイミン」と呼ばれた日系二世の苦労人だ。
ホノルルのチャイナタウン西側のスラム地区として知られていたアアラ公園の周辺で育ったシロウは、太平洋戦争のさなかの1942年にアメリカ軍の徴用によって採石場に送られるが、重たいハンマーを振り下ろして岩石を切り出す重労働を毎日繰り返す過酷な現場では、体重わずか50Kg足らずの小柄な彼は役立たずでしかなく、その働きぶりを見兼ねた上官軍曹によって、別の労働作業場に配置転換される。
新たに与えられた作業は、兵営便所の掃除だった。
しかし彼は、誰もやりたがらない仕事であっても力を惜しまず取り組んでいればチャンスは必ずやってくるのだと信じ、自らを「アメリカ軍でナンバーワンの便所掃除の男」と称して誇りを持ち、与えられた仕事に誠実に向き合った。
その勤勉で前向きな姿勢がやがて給食軍曹の目に留まるところとなり、彼は厨房での勤務に引き抜かれる。
そして、調理の現場を経験していくうちに実力を開花させ、やがては高級将校のお付きの料理人を勤めるまでになった。
彼は自分の信念の正しさを証明してみせたのだ。
天職を得たシロウは戦争が終わると、長兄のタツオが経営し大変に人気のあったモチヅキ・ティーハウスで責任ある料理人として働き始めた。
しかし、当時のハワイ経済に深刻な影響を与えた海運業者による大規模なストライキの勃発によってビジネスは行き詰まり、さらに追い討ちをかけるように兄のタツオが多額の負債を遺して他界してしまう。
それからの15年間、シロウは様々なレストランや食堂の厨房での仕事を転々としながら返済に腐心し、その後も念願だった自分の店を持つものの、労多くして功少ない試練の日々が続いていた。
人生の低迷期にあった彼に転機をもたらしたのは、1962年に第2代ハワイ州知事に就任したジョン・A・バーンズ氏だった。
兄タツオを通じたモチヅキ・ティーハウス時代からの旧友であり、シロウの勤勉で前向きな姿勢を高く評価していたバーンズ氏は、彼を知事官邸の専属調理人として雇い入れ、このことが縁となってカピオラニ・コミュニティ・カレッジでの調理専門課程の指導教員としての職を得ることになった。
ようやく安定した職に就き、収入も社会的地位も保証された順調な50歳を迎えていたシロウだったが、自分の店を持ち成功させたいという思いは志半ばのままだった。
そこに、アイエアにあるボーリング場の中で店を構える食堂の売却話が持ちかけられる。
申し分の無い今の生活を捨てて、無謀とも思える多額の負債を再び抱えることになるこの話に、友人たちの皆が反対したが、彼は自分の夢にもう一度挑戦する機会として食堂の買取を引き受け、Shiro’s Hula Hula Drive Inの屋号で営業を始めた。
資金繰りを工夫し、寝る間も惜しんで切り盛りして数年後、食堂は見事に大繁盛し、1969年には手狭になった店舗をワイマル・ショッピングセンターの現在の場所に移転するまでになった。
彼にはもうひとつ、自分の店を成功させることの他に、食におけるサイミンの知名度をもっと高めたいという思いを持っていた。
そこで、店舗の移転を機に食堂の名前をShiro’s SAIMIN HAVENと変え、メニューとして60種類ものサイミンのヴァリエーションを取り揃えた。
彼の斬新なアイデアによって、これまでは主食への付け合わせ程度の存在としか見做されていなかったローカルフードは、今日誰もが知るメインディッシュへと昇華した。
若い頃から誰もやらなかったことに絶えず挑み続け、外食産業の第一線で長年活躍してこられた”Mistah Saimin”、Franz Shiro Matsuo翁は老齢の域に達してもなお、数々の講演や奨学基金への協力を通じて、あらゆる年齢層の人々の可能性を引き出すための支援とコミュニティの活性化に尽力され、先月、93歳で大往生を遂げられた。
「僕は力持ちではない。速く走ることもできなければ、高く遠く跳ぶこともできない。だけれども、ウクレレを弾いて、歌って、そんな自分が面白くて笑ってしまう。これ以上幸せなことはないじゃないか」と彼は語っている。
これまで光が当たることがなかったローカルフードに革命をもたらした「ミスターサイミン」は、ひょっとしたら、今までに何度となく味わった苦労の経験の末についに夢を叶えた自分自身をサイミンになぞらえていたのかもしれない。
小さな町の一角でその所在を静かに主張する、きらびやかな飾りもないごく普通の食堂の看板に、僕はハワイに暮らす素朴な庶民のささやかだけれども痛快な生活史を垣間見た。
参考資料:
フルケンさん、こんばんは。
記事を静かに読んでいて何だか自分の今と少し重ねて読んでいました。(私はそんなに勤勉じゃないけど(∋_∈))
何だろう?シロウさんの信念… 金銭的な事だけじゃなく自分の魂に素直に生きる姿勢。凄く大切だと感じました。 自分がワクワク楽しく出来る事をチョイスする事が大切で周りから反対されたりする事の中に実は真実があったりするんだろうなぁ… そしてそのシロウさんの人生をまるで目で見たかのように感じられたフルケンさんの文章がとても心地良かったです☆
あ~ サイミン食べたくなってきた(∋_∈)夜中はお腹が空いちゃいます(汗)
Puaさん、こんにちわ。
不本意な境遇でも腐らず誠実に、明るく淡々と振る舞える人って強いですよね。
今いる場所で、今やっていることをおろそかにしないこと。
シロウさんの生き方にそのヒントがあると思いました。
夜中の小腹にサイミン。満足してぐっすり眠れそうですねー。
サイミン好きだけれど、ミスターサイミンのお話、全然知りませんでした。素敵なお話教えてくれてありがとう。
yoko-kalaunuさん、こんにちわ。
シロウさんも含め日系の方々のお話は学ぶべきことが多くて、
なんだか本当に素敵ですよね。
ハワイという土地の魅力はこういうなにげない物語の中にこそあると思います。